「お願い、せつなママ！　ちびくろを捨てないでっ！」

　夕食の後、今 ふたりで旅行中の はるかさんたちの寝室で 何やらこそこそやっている
　この子の様子を見とがめてのぞき込んだ。

　ダブルベッドの上に座り込んだ ほたるが抱えているのは、小さな黒猫だった。

　痩せこけて、ところどころ毛のはげ落ちた あまりかわいいとは言えないその子猫を、
　私に取り上げられまいと ふるえる両腕でつぶれそうな程に抱きしめている。腕のすき
　間から、弱々しく ニャア・・・・と鳴き声が聞こえた。

　ベッドの上には、ほたるが おこづかいで買ってきたらしい 安物のキャットフードが、
　あちこちに散乱していた。

　この子が朝早くから、この留守部屋に 何度も足を運んでいたのは知っていたけど・・・・。

　夕べから、今も 絶え間なく降り続いている 冬の長雨。

　暖かな家のすぐ側で、消えかけていた小さな命を 拾って来たのね、ほたるちゃん。

　「さあ。これで もう ちびくろは、うちの子よ。」

　赤いシルクの余りギレを見つけ、雌の子猫の首に 小さなリボンに結んでやった。

　「ありがとう、せつなママ！　良かったねぇ、ちびくろ。もう野良ネコじゃないんだよ。
　　とっても かわいいよ、ちびくろ。」

　ほたるは 無邪気にはしゃいで、子猫をひざの上に抱き上げた。はげちょろの薄い背中
　を愛撫しながら、ミルクを注いだカップを 小さな鼻先に差し出す。

　あ・・、そのティーカップは、みちるさんが大事にしている・・・。 ウフ・・、まあ いいでしょ
　う。きっと 許してくれるわね。

　だけど 子猫は、ウェッジウッドの豪華なカップになみなみと注がれた なま暖かいミルク
　をひと舐め、ふた舐めしただけで けだるそうに顔をそむけてしまった。
　

　「そうなの・・・・。朝から いろんなキャットフードを買ってきてみたんだけど、全然食べてく
　　れないの・・・・」

　冬の雨とは思えないほど 強く激しくフロントガラスにたたきつける水滴を、ワイパーが
　弾き飛ばす、蹴散らす。

　ルームミラーに映る、ぐったりとした子猫を抱きしめた ほたるの半泣き顔を見たくなく
　て、ぬかるみに捕られそうになるステアリングを 右に左に激しく振って操ることにだけ
　専念した。

　ようやくたどり着いたのは、夜も ＰＭ１０：００になろうとしているのに 親切に迎え入れて
　くれた小さな動物病院。でも・・・・

　・・・・私たちは、３０分もせずに そこを後にしなければならなかった。

　ちびくろは、ほたるに出会うのが 遅すぎた。夕べ一晩中、雨にさらされていた小さな体
　は 冷たく衰弱しきっていて・・・・・・

　その晩、私たちは 留守部屋のベッドで夜を明かした。

　毛布にくるまり、セーターの胸にうずめるように子猫を抱えて ほたるは一晩中すすり泣
　いた。こんな時に かける言葉を持たない私は、子猫の代わりに 愛し子を抱きしめる。

　明け方近く、泣き疲れてウトウトし始めていた ほたるの顔を ちびくろが弱々しく 一舐め
　し、ニャア・・ と鳴いた。

　ほたるちゃん、ほたるちゃん 聞こえた？ ちびくろは あなたに「ありがとう・・」って言った
　のよ。

　そして翌朝・・、ちびくろは ほたるの腕の中で 短い命の役割を終えた。

　でも、その小さな亡骸は、ほたるの体温で とても暖かかった。

　「ごめんね・・・、ごめんねっ！助けて上げられなくて ごめんね、ちびくろっ！」

　いまいましい雨は、まだ 降り続いている。庭の片隅に小さな盛り土をした 粗末な墓標に
　かけた、赤いリボンに染みて 滴る。

　盛り土に伏し、ずぶぬれになって号泣する ほたるに、とても口には出せなかったけれど、
　本当はこう言ってあげたかった。

　“あなたは 本当にやさしい女の子よ。その子に抱かれて息を引きとった ちびくろは、きっ
　と幸せだったのよ・・・・。”

　冬の雨は冷たく いよいよ激しく。差し掛けてあげる雨傘をすり抜けて、ほたるの小さな体
　を容赦なく打ち据える。